総曲輪の歴史と変遷|地元生まれの私が語る「昔と今の総曲輪」
総曲輪(富山市)の歴史と変遷|なぜ「総曲輪(そうがわ)」と呼ぶ?地名の由来から再開発まで
富山の中心地、総曲輪。その歴史を写真とともに振り返るこのページでは、地元生まれの私が20年以上の記録を紐解きます。総曲輪の歩んできた歴史が詰まった写真の数々をご覧ください。このページは長いので、時間のある時にお読みください。きっと、あなたも総曲輪について深い感慨を持つようになると信じています。
総曲輪の歴史について動画にしました。下の動画はYouTubeのもので、画面をクリック/タップで再生開始、再生一時停止ができます。通信量にご注意願います。
総曲輪(そうがわ)の地名の由来と、富山城下町の成り立ち
総曲輪(そうがわ)」という全国的にも珍しい地名は、かつてこの地が富山城の「お濠(ほり)」に囲まれた場所であったことに由来します。
「曲輪(くるわ)」とは、お城の周囲に築かれた土塁や石垣、そしてお濠で区切られた区画のこと。富山城の周囲を「総(そう)」じて、ぐるりと大きな曲輪(お濠)が取り囲んでいたことから、「総曲輪」と名付けられました。
江戸時代には武家屋敷が並ぶ城下町の中心部でしたが、明治時代に入ると、富山藩が発令した「合寺令」によって寺院がこの地に集められ、西別院・東別院を中心とした「門前町」として新たな発展を遂げます。
城を守るための強固な「お濠の街」から、人々が集い賑わう「商いの街」へ。このダイナミックな変遷こそが、現在の総曲輪の活気の礎(いしずえ)となっているのです。
では、総曲輪の歴史を見ていきましょう。動画内の文章です。
総曲輪の歴史~明治・大正時代|「合寺令」が街の発展の礎となった理由
明治4(1871)年の廃藩置県のすぐ前、
明治3(1870)年10月、富山藩は「合寺令」を発令した。
これはすべての寺院を1宗1寺にまとめる、というものであった。
これは明治元(1868)年、新政府が出した宗教政策、「神仏分離令」であり、国家の宗教は「神道(しんとう)」を公認にしようとしたものであった。
富山は浄土真宗の檀家が多く、浄土真宗本願寺派の西別院、真宗大谷派の東別院は総曲輪2丁目にある。
現在の東別院(真宗大谷派)は、明治13(1880)年に説教所が総曲輪に移転し、本山へ別院への昇格を門徒が願っていた。
その話を聞いたのが、「瀬川良太郎」と「高沢藤七」であった。
「高沢藤七」はそれを叶えるべく、京都へ行くために、鉄道のある東海道線の米原駅まで歩いていくほど熱心に活動していた。
※このころ、まだ北陸線は存在していない。
明治17(1884)年に別院に昇格すると、敷地の拡大のためにお濠(ほり)の埋め立てが始まった。
この「砂持奉仕(すなもちほうし)」では神通川の土砂を多くの人が運搬したもので、当時は総曲輪にもお濠が多かった。
西別院(浄土真宗本願寺派)もほぼ同時期に総曲輪へ移り、西本願寺の別院となる。
もともと浄土真宗の檀家が多い富山であるために、多くの信徒が総曲輪へやってくるようになると、飲食店などの店が並び始め、門前町(もんぜんまち)としての性格を強めていった。
総曲輪の商店街の始まりと市内電車
明治28(1895)年7月、宿屋を営んでいた「高沢藤七」と、古着商の「瀬川良太郎」が総曲輪通りに夜店を出した。
この時が総曲輪商店街の始まりとされている。
この時期国は、明治25(1892)年、「鉄道敷設法(てつどうふせつほう)」を発布した。
これは日本各地へ鉄道網を張り巡らせるというもので、とりわけ急速な幹線敷設の必要が出た。
至る場所の中心市街地では敷地の確保ができないため、中心市街地から少し離れたところに中心駅が建設されていった。
大正2(1913)年に北陸線が全通したのを祝い、「一府八県連合共進会」が開催された。
開催場所付近に「共進会場前」電停(現在の富山いずみ高校付近)が設置され、富山駅から会場までの輸送のために路面電車が開業した。
経営は「富山電気軌道」によって行われ、本線である「富山駅~西町~共進会場前」と、支線である「富山駅~総曲輪(現在の丸の内電停付近)~西町」であった。
現在の丸の内~大学前、と、富山港線が無いような路線図であった。
市内電車は経営の悪化から富山市が経営することとなり、西町を中心に路線網が増えていくのであった。
総曲輪の娯楽は「映画」
大正5(1916)年には映画館である「中央館(のちの松竹館)」、その後「東洋館」「帝国館」「富山映画劇場」など映画館が多く開業していった。
大正12(1923)年には百貨店「岡部呉服店」が現在の中央通り入り口付近に開業した。
昭和7(1932)年には西町に百貨店の「宮市大丸(現在の富山大和)」が開業した。昭和9(1934)年にコンクリート6階建て、昭和12(1937)年に地下1階、地上8階に増築している。
しかし、昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まると、軍需のため陸上交通事業調整法が発布され、創業が昭和5(1930)年の「富山電気鉄道」を母体とした「富山地方鉄道」が昭和18(1943)年の元日に発足、路面電車も富山市から富山地方鉄道の営業になった。
※富山電気鉄道開業当時の県内の主な私鉄は以下の通り。
- 東岩瀬~富山➡富岩鉄道(ふがんてつどう)、現在の富山地方鉄道富山港線
- 新富山~新湊➡越中鉄道、のちの富山地方鉄道射水線
- 富山~南富山~笹津➡富南鉄道、現在の富山地方鉄道不二越線と、のちの富山地方鉄道笹津線
- 電鉄富山~寺田~上市~滑川~西三日市(電鉄黒部駅付近)、と、寺田~立山(現在の岩峅寺)➡富山電気鉄道、現在の富山地方鉄道本線と立山線
- 南富山~立山(現在の岩峅寺)~粟巣野(現在の立山駅付近)➡富山県営鉄道、現在の富山地方鉄道上滝線と立山線
- 滑川~上市~(富山電気鉄道とは違うルートをたどって)立山(現在の岩峅寺)➡立山鉄道、※滑川~上市と五百石~立山は富山電気鉄道に合併している
- 主に、西三日市(電鉄黒部駅付近)~宇奈月温泉➡黒部鉄道、現在の富山地方鉄道本線の一部
- 富山市内の路面電車➡富山市営軌道、現在の富山地方鉄道市内軌道線
総曲輪の街も壊滅、そして終戦
昭和20(1945)年8月2日未明、アメリカ軍の大規模な空襲を受け、富山大和などごく一部の建築物を除き、富山市は壊滅的被害を受けた。市街地の99.5%が焦土と化し、2,695名が犠牲となった。
終戦後は闇市が広がっていくのだが、戦災から復興のために、昭和22(1947)年1月、富山復興土地区画整理区域と事業実施年度割が決定された。
富山駅付近と総曲輪界隈が二大拠点になるようにされ、現在の道路・区画のようになっていった。
復興が始まる中、昭和22(1947)年8月、第一回富山復興祭が開催された。
それは大きなイベントで、スポーツ系のものや美術系、そして商売の面でも大賑わいを見せた。
現在の「富山まつり」である。
昭和28(1953)年末、総曲輪通りはアーケード化し(※現在のユウタウン総曲輪の部分の総曲輪通りは昭和30年にアーケードが完成している)
昭和29(1954)年には「富山産業大博覧会」、
昭和30(1955)年には総曲輪商店街60周年を記念し、大売り出しなど様々なイベントを開催した。
「全日本チンドンコンクール」もこの時に始まった。
「全日本チンドンコンクール」は富山の春の風物詩となり、毎年恒例のまちなかイベントとして定着した。
昭和の総曲輪黄金時代|西武・大和・ユニー、百貨店がひしめき合った熱狂
その後は西町や中央通りもアーケード化され、総曲輪界隈では大規模商店が出店するようになった。
昭和43(1968)年にスーパー「タイヨー」、
昭和46(1971)年、中央通りに「長崎屋」、
昭和47(1972)年、「ユニー西町店(現在のピアゴ)」、
昭和51(1976)年、「富山西武」が開業した。
※「富山西武」は「ワクル総曲輪(SOGAWA BASEが入る建物)」の部分にあった
まちなかの開発と同様に加速的に普及していったのが「マイカー」であった。
※1960年代からの「モータリゼーション」を指す
まちなかでは駐車場が少なかったうえ、公共交通は路線縮小など経営が悪化、そして郊外への店舗・住宅へと人が移るようになり、バブル崩壊後は多くの商店が経営の圧迫などを理由に閉店へ追い込まれていく。
総曲輪の通行量は激減、そして再開発へ
総曲輪界隈では通行量がどんどん減り、
平成11(1999)年、富山市に「中心市街地活性化推進室」が設置された。
平成12(2000)年には「(株)まちづくりとやま」が設立された。
平成14(2002)年にはまちなかの賑わいと活性を求め、マルシェイベント「越中大手市場」が始まった。
大手モールを目いっぱい使うこのイベントは、今でも多くの人が訪れる新たな形のイベントとして定着した。
平成17(2005)年には「みどり通り」から「グランド通り」の間を再開発した「西町・総曲輪キュービィ」が完成した。既存の店舗やグランドパーキング、富山交通(富タク)の乗り場も新たになった。
平成19(2007)年にはその隣に「総曲輪FERIO」と「グランドプラザ」が開業。
「来街者に魅力的なイベントが開催でき、買い物の合間の休息や待ち合わせに使える広場」が創出された。
富山大和は「総曲輪FERIO」に移転し、元々あった場所に平成27(2015)年、「TOYAMAキラリ」が開業。
ガラス美術館や市立図書館などが入っており、建築家「隈研吾」のデザインが多くの人を魅了している。
平成28(2016)年には「ユウタウン総曲輪」が開業。
大型の駐車場や人気の宿泊施設、大型のシネコン(映画館)、飲食店やコンビニ、イベントが行われる「ウエストプラザ」などで構成されている。
令和2(2020)年には富山西武跡地に「SOGAWA BASE」が開業した。
「食のコンパクトシティ」を目指し、県内の食材を取り入れた地産地消に取り組んでいる。
飲食店やスーパーは賑わい、ここでもイベントがよく開催される。
総曲輪界隈には大正時代や昭和初期から存在する人気店があり、そして数多く行われる様々なイベントを求めて、「個性」と「憩い」があふれるこの街へ、今日(こんにち)も多くの方が来街している。
総曲輪通りと施設、歴史、思い出についてを写真と共に
総曲輪の歴史を述べてきました。続いて、総曲輪の変遷を歴史的な写真と共に紹介します。
※写真のダウンロード、スクリーンショット等はご遠慮願います。
総曲輪の歴史で重要な「総曲輪通り」
総曲輪の歴史を語るうえで外せないのは「総曲輪通り」です。「中央通り」側から見ていきましょう。

【昭和初期の総曲輪通り入口】 中央通りから見て、現在の「SOGAWA BASE」や「総曲輪フェリオ」へと続く入口の風景です。左側の建物が少し奥まっているのは、かつての住所区分(中町と総曲輪の境目)の名残だと言われています。今の景色と見比べてみると、街の骨格が100年前から受け継がれていることが分かります。
※当サイトが購入の上許可を得て掲載している貴重な史料写真です。無断転載・拡大表示等はご遠慮ください。

現在の総曲輪通り入口(中央通り側)。総曲輪の街を構成するのに欠かせない通りで、すぐ右側には「食のコンパクトシティ」をコンセプトに2020(令和2)年にオープンした施設「SOGAWA BASE」があります。

【街の鼓動を支える路面電車】 この場所の最寄り電停は「中町(西町北)」、そしてすぐ近くには「西町」があります。
ここを通る路面電車(市内電車)は、明治・大正から続く総曲輪の発展を支えてきた、いわば「街の背骨」です。富山駅や岩瀬浜、大学前を繋ぐ、まさに市内最高の交通手段といえます。
実は富山の路面電車、事業(軌道線)としての利益率は全国ナンバーワンを誇ります。それは、今も昔も多くの人々がこの「総曲輪」という街に集い、電車が市民の生活に深く根付いている証でもあります。
昔の写真に写っている電車の風景と、今ここを走る様々な車両。形は変わっても、総曲輪の賑わいを作る主役であることは変わりません。

【アーケードの天井に隠された歴史の跡】 総曲輪通りに入ったら、ぜひ一度立ち止まって「天井」を見上げてみてください。
途中で屋根の骨組みのデザインが、ガラリと変わっている場所があることに気づくはずです。実はこれ、かつての「町名の境界線」がそのまま形として残ったものなのです。
昭和28年に総曲輪側でアーケードが完成した当初、隣り合う「中町」の部分には屋根がありませんでした。のちに中町側でもアーケードが建設された際、工法や時期が異なったために、今のような「継ぎ目」が生まれました。「中町」は「総曲輪3丁目」と「中央通り1丁目」に編入され、消滅しました。「中町」電停の名前はここから来ています。
地図の上では消えてしまった古い町境が、今も頭上でひっそりと歴史を伝えている……。そんな隠れた発見を探しながら歩くのも、総曲輪の楽しみ方のひとつです。

【24時間、街の息吹を感じるランドマーク】 夜明け前の静寂に包まれる「ワクル総曲輪(SOGAWA BASE)」。かつて富山西武が街の賑わいを支えたこの場所は、いま、総曲輪の新しいランドマークとして生まれ変わっています。
1階の「SOGAWA BASE」には、富山の豊かな食材を活かした地産地消型の名店が集結。ランチタイムはもちろん、夕方から夜にかけては、仕事帰りや観光客で賑わう「大人の社交場」のような活気に包まれます。
さらに、2025年8月には待望のスーパーマーケットも開業。こだわりのお惣菜や新鮮な食材が揃い、街歩きのついでに立ち寄れる便利さが加わりました。
歴史が積み重なった場所に、新しい「食」の楽しみが生まれる。朝から夜まで、総曲輪のいまを象徴するスポットです。
また、外の総曲輪通りに面した場所には広場や休憩できる椅子・テーブルなどがあります。この場所ではよくイベントが開催されます。

【呉羽山からも望める、総曲輪のシンボル】 この写真は、夜の静寂の中に浮かび上がる「ワクル総曲輪」の全景です。
実はここ、富山市民におなじみの「呉羽山展望台」からもはっきりと確認できるほど、街の中でも存在感のある建物なんです。
1階の「SOGAWA BASE」の上層部は、居住空間(マンション)になっています。これほど街の中心にありながら、高層階の窓からは立山連峰や富山市街の夜景がパノラマで広がり、まさに最高の景色を独り占めできる場所でしょう。
商業施設としてだけでなく、ここで「暮らす人」が増えることで、総曲輪の街に新しい血が通い、夜まで灯りが絶えない活気ある風景が作られています。
2009年末の総曲輪通り。市内電車環状線が開業し、年末という事もあって多くの方が行き交いしていました。

【かつての街の顔「富山西武」】 この写真の左側にあるのは、かつての「富山西武」です。
「富山西武」は残念ながら2005(平成17)年の3月末で閉店しました。むかし、祖母に6階だったか5階だったかで、おもちゃを買ってもらった時、文具店で鉛筆やノートを買ったとき・・・いろいろ買い物しました。僕の中の、総曲輪の中心としている場所です。

【総曲輪をアップデートした環状線の誕生】 白や黒のスタイリッシュな車体で街を駆ける「セントラム(デ9000形)」。
2009年の市内電車「環状線」の開業とともに誕生したこの愛称は、いまや総曲輪の風景に欠かせないものとなりました。
この環状線の開通によって、富山駅から総曲輪の街へ、別ルートでスムーズにアクセスすることが可能になりました。公共交通としての利便性が飛躍的に高まったことで、再び「歩いて楽しむ街」としての活気が戻ってきたのです。
歴史ある商店街のアーケードのすぐ近くを、最新鋭の低床車両が静かに通り抜けていく……。そんな「未来の富山」を感じさせてくれる風景を、ぜひ現地で体感してみてください。
上にある「⇐お手洗」は「西別院」手前の公衆トイレを指します。オストメイト対応の誰でもトイレもあります(2024年9月現在)。なお、「総曲輪界隈オストメイト対応トイレ」はメニューからご覧いただけ、総曲輪のどこにオストメイト対応トイレがあるか確認できます。
総曲輪の歴史を語るうえで重要な「西町交差点」
総曲輪の歴史で、重要な交通手段として「路面電車」が関係しています。

【かつての富山大和と、幻の西回りルート】 西町交差点の風景です。現在、左手にある「TOYAMAキラリ」の場所には、かつて「富山大和」の百貨店ビルがそびえ立ち、かつてのスクランブル交差点は行き交う人々で溢れかえっていました。
ここは単なる交差点ではなく、富山の交通を支える「要衝」でもありました。かつて市内電車は、現在の「大手モール(環状線)」ルートだけでなく、ここから護国神社を経て安野屋へと至る路線が存在していたのです。
驚くべきことに、その線路は「越中鉄道(のちの富山地方鉄道射水線)」へと乗り入れ、はるか高岡の街まで鉄路で繋がっていました。
百貨店を核とした賑わいと、県内を網羅した広域なネットワーク。当時の西町がいかに「富山の心臓部」として機能していたかが、この場所の歴史から伝わってきます。

【空襲を耐えた百貨店と、受け継がれる乗り合い所】 先程の写真と同じ場所から撮影された、昭和10年(1935年)頃の西町交差点です。
写真の場所のすぐ左側に、のちの富山大和となる「宮市大丸」がありました。コンクリート造りのこの頑丈な建物は、昭和20年の富山大空襲という凄惨な火の海を耐え抜き、戦後復興の灯火として長くこの街を見守り続けました。
注目していただきたいのは、(見づらいですが)右側の「乗り合い所」です。この場所は現在、富山地方鉄道の「西町乗車券サービスセンター」として受け継がれています。
建物は新しくなり、百貨店は「TOYAMAキラリ」へと姿を変えましたが、交通の拠点としての役割と、街の底力は今もこの場所に息づいています。
※当サイトが購入の上許可を得て掲載している貴重な史料写真です。無断転載・拡大表示等はご遠慮ください。

【隈研吾氏が描いた、光とガラスの芸術】 西町電停や中町電停を降りてすぐ、ひときわ目を引く斬新な建物。それが、現代の総曲輪を象徴するランドマーク「TOYAMAキラリ」です。
世界的な建築家・隈研吾氏によって設計されたこの建物は、御影石、ガラス、アルミニウムを組み合わせた外観が、光を反射してキラキラと輝きます。その美しさはインテリアにも及び、一歩足を踏み入れれば、木材を贅沢に使った開放感あふれる空間が広がっています。
市立図書館やガラス美術館を内包するこの場所は、かつての百貨店とはまた違う「知と美の拠点」として、今日も多くの人々をこの街へと惹きつけています。
「TOYAMAキラリ」内には、市立図書館やガラス美術館などが入っています。静かで厳かな場所です。

【戦後復興の象徴・旧富山大和の雄姿】 ほぼ同じ場所から、2003年(平成15年)6月に撮影された風景です。
正面に見えるのは、移転前の旧「富山大和」。その歴史は1932年(昭和7年)の開業に遡り、昭和9年には当時最新鋭のコンクリート造り6階建てへと姿を変えました。当時は「宮市大丸」の名で親しまれ、文字通り富山の繁栄の象徴でした。
特筆すべきは、1945年(昭和20年)の富山大空襲です。市街地の99.5%が焦土と化した中、この建物は崩れることなく立ち続け、絶望の淵にあった市民に復興への希望を与えました。
この撮影から数年後、大和はフェリオへと移転し、この場所は「TOYAMAキラリ」へと受け継がれます。しかし、この重厚なビルが放っていた圧倒的な存在感は、今も多くの市民の心に深く刻まれています。

【岡部呉服店から望む、建設間もない宮市大丸】 昭和10年(1935年)頃、現在の「中央通り」入口付近にあった「岡部呉服店」あたりから、宮市大丸(のちの富山大和)方面を撮影した貴重な一枚です。
当時の富山を代表する二大百貨店が向かい合っていた、まさに「商いの中心地」の原風景。注目すべきは、ビルの背後に広がる景色です。当時はまだ高い建物が少なく、少し離れれば豊かな木々が生い茂る、自然と街が隣り合わせののどかな風景が広がっていました。
近代的なコンクリートビルと、かつての城下町の面影を残す緑。この場所が、これから始まる富山のダイナミックな発展の「出発点」であったことが伝わってくるようです。
※当サイトが購入の上許可を得て掲載している貴重な史料写真です。無断転載・拡大表示等はご遠慮ください。

【全天候型の開放空間が、街に新しい風を吹き込む】 「TOYAMAキラリ」から平和通り沿いに歩みを進めると、目に飛び込んでくるのが、巨大なガラス屋根に覆われた開放的な広場「グランドプラザ」と、隣接する大型商業施設「総曲輪フェリオ(FERIO)」です。
かつて西町交差点で空襲を耐え抜いた「富山大和」は、2007年にこの場所へ移転開業しました。今や富山県内唯一の百貨店として、街の品格と賑わいを支え続けています。
隣接するグランドプラザは、平日は誰もが自由に過ごせる「市民の憩いの場」ですが、週末になれば一変。多彩なイベントが開催され、多くの人々で溢れかえる「街の巨大なリビング」へと姿を変えます。
時代とともに形を変えながら、常に新しいワクワクを届けてくれる……。ここは、総曲輪の「今」を最もダイレクトに体感できる場所です。

【巨大空間に生まれ変わる前の、懐かしき街並み】 同じ場所から見た2003年(平成15年)6月の風景には、かつての「グランド通り」や、街の娯楽を支えた映画館がはっきりと確認できます。
当時の面影を残す「グランド通り」から「みどり通り」にわたる一帯を、大規模に再開発して誕生したのが、現在の「西町・総曲輪キュービィ」です。
興味深いのは、再開発によって建物は新しくなりましたが、以前からこの場所で商いをしていた店舗の多くが、施設の外周を囲むようにして戻ってきたことです。
昭和から続く商人の心意気が、令和の最新スポットの土台を支えている。そんな「新旧の共存」も、総曲輪という街の深みを作っている要因のひとつです。

【巨大な広場になる前の、親しみ深い商店街】 2003年(平成15年)6月、再開発が始まる直前の総曲輪通りから中央通り方向を望む一枚です。
写真の右側(すぐ右側はグランド通りでした)、現在は開放的な「グランドプラザ」となっている場所には、かつて「グランド通り」と呼ばれるこぢんまりとした通りがありました。
ここにあった「瀬川書店」を覚えている方も多いのではないでしょうか。私自身も、発売日にワクワクしながらマンガ誌を買いに来たものです。そんな何気ない日常の風景が、この場所には溢れていました。
建物や街の形が劇的に変わっても、一冊の本を手に取った時の喜びや、この場所で過ごした時間は、今も私たちの記憶の中に大切に息づいています。

【商いと生活が隣り合わせだった記憶】 グランド通りのほぼ中央、現在の「総曲輪フェリオ」や「喫茶チェリオ」がある付近の風景です。
写真左側に見える「鮮魚店 魚正」さんには、総曲輪2丁目で商いを営んでいた私の実家も、仕事の仕入れなどで大変お世話になりました。当時は今よりもずっと、店同士の横の繋がりが強く、街全体が一つの家族のような温かさがありました。
すぐ後ろにはカラオケ店もあり、お買い物のお客さんだけでなく、放課後の学生や仕事帰りの大人たちで、この細い通りは娯楽を楽しむ人がいました。
巨大な再開発ビルが建った今、当時の建物の形を思い出すのは難しくなりましたが、魚正さんのことや、通りのことは、非常に思い出があります。
総曲輪の歴史に刻まれた賑わい拠点「グランドプラザ」
総曲輪の歴史に刻まれたのは、まちなかの賑わい拠点「グランドプラザ」が誕生したことです。

【喧騒のあとの静けさの中で思うこと】 夜明け前の静寂に包まれたグランドプラザです。
この場所から後ろを振り返れば、多くの飲食店や居酒屋が並び、さらに進めば富山最大の歓楽街「桜木町」へと繋がっています。そのため、夜が明ける頃の総曲輪2丁目周辺には、残念ながらタバコの吸い殻などのゴミが散見されることも少なくありません。
私は時折、この場所の清掃活動を行っています。それは単に見た目を綺麗にするためだけではありません。「割れ窓理論(ブロークン・ウィンドウ理論)」にあるように、街を美しく保つことは、訪れる人の心に働きかけ、マナーを向上させる力があると信じているからです。
街の美化は、人の心を美しくすること。 総曲輪がこれからも、誰もが気持ちよく過ごせる誇りある街であり続けるために。この静かな夜明けの風景を見るたび、その想いを強くします。

【私という「人間」が生まれる原点となった場所】 2003年(平成15年)6月、総曲輪通りをさらに進み、国道41号線へと抜ける手前の風景です。
写真の右側は、のちに大きく再開発されるエリア。そして左側には、かつてこの場所で親しまれた「清明堂書店」がありました。現在は100円ショップが入っていますが、建物そのものは当時の面影を残しています。
実は、この「清明堂書店」は、私にとって人生で最も大切な場所のひとつです。大げさではなく、「もしこの本屋さんがなかったら、私はこの世に生まれてきていなかった」と言えるほどの深い縁(えにし)がある場所なのです。
街の景色は、単なる建物の集合体ではありません。そこには、誰かの出会いや、新しい命の始まりが刻まれている。そんな「街の記憶」を、これからも大切に語り継いでいきたいと思っています。
総曲輪の歴史に刻まれた「アーケード商店街」
総曲輪の歴史として、昭和28年に、写真にあります「総曲輪通り商店街」のアーケードが完成。38豪雪の際は、屋根が崩落したと聞いたことがあります。ダンプカーを沢山使って、せっせとシャベルで雪を入れて運搬したのだとか。

【国道を越えて、新しい総曲輪の拠点へ】 総曲輪通りのアーケードを抜け、国道41号線を渡った場所にあるのが「ユウタウン総曲輪」です。
写真に写っているのはユウタウン総曲輪から見た総曲輪通り方向。この「ユウタウン総曲輪」は、映画館(J MAX THEATER とやま)を中心とした再開発エリア。近くにはバス停も多く、富山市内各地を結ぶ交通の結節点としての役割も担っています。
写真の右手には、人気の天然温泉を完備した宿「御宿 野乃(おんやどのの)」があります。実は、ここの「日帰り温泉」で楽しむ朝風呂が、私の密かな楽しみの一つ。手ぶらで行けるレンタルタオルもあるので、街歩きで少し疲れた体を癒やすには最高のスポットなんです。
活気ある商店街を歩き、総曲輪の歴史に触れ、最後は温泉でゆっくりと汗を流す……。そんな贅沢な総曲輪の過ごし方を、ぜひ皆様にも体験していただきたいです。
※日帰り温泉については、リンクから御宿野乃のHP(大浴場)にてご確認ください。

【公共交通が、街の景色を塗り替える】 夜の平和通りに浮かび上がる、フェリオ、グランドプラザ、そしてキュービィの輝き。その中心に静かに佇むのが「グランドプラザ前」電停です。
2009年に市内電車の環状線が開通して以来、ここは総曲輪の新たな玄関口となりました。連日多くの乗降客で賑わうこの場所は、利便性だけでなく「公共交通がいかに街の活気を作り出すか」を私たちに無言で教えてくれています。
車社会と言われる富山において、電車を降りてすぐ目の前に広場や百貨店があるという贅沢。それは、誰もが自由に、そして安全に街を楽しめる「持続可能な豊かさ」の象徴でもあります。
賑やかな昼の顔とは違う、夜の光に照らされたこの景色を見るたび、交通と街が手を取り合って歩む大切さを再確認できます。
総曲輪の歴史—もう見られない「もう一つの総曲輪通り」
国道41号線を渡ると、もう一つ短い総曲輪通りがありましたが、「ユウタウン総曲輪」に生まれ変わりました。

【ユウタウンへと生まれ変わる前の、懐かしき学び舎の周辺】 2002年(平成14年)の夏、現在の「ユウタウン総曲輪」が建つ前の大手モール側から撮影した総曲輪通りです。


ここはかつて、総曲輪小学校の同級生や後輩たちの実家が営む商店が軒を連ね、生活の息遣いがすぐそばに感じられる場所でした。
再開発によって街は近代的で便利になりましたが、今はもう、当時の面影を探すことは難しくなってしまいました。
建物は消えても、ここで共に育った仲間たちの記憶だけは、この写真の中に鮮やかに残っています。失われた風景を惜しみながらも、新しい街を見守り続けていきたい――そんな複雑な、けれど確かな愛着を感じる一枚です。

【ユウタウン総曲輪:賑わいを継承する、西の拠点】 市内電車「環状線」側から見た、現在のユウタウン総曲輪の姿です。
ここには、先ほどご紹介した「御宿 野乃」のほか、映画ファンにはたまらない「J MAX THEATER(ジェイマックスシアター)とやま」があり、一日中スクリーンが描き出す物語に浸ることができます。
「ウエストプラザ」は、週末のイベントはもちろん、普段からストリートピアノが設置されており、誰かが奏でるメロディが心地よく響く空間です。
隣接するカフェ「イタリアントマト」で食事を楽しみながら、のんびりと広場を眺めて過ごす人々……。かつての商店街の活気は、今、こうして新しい形の「憩い」へと姿を変えて、次の世代へと受け継がれています。

【街の境界線を越え、周遊の時代へ】 真夜中の静寂に包まれた、ユウタウン総曲輪と「大手モール」の夜景です。頭上には、都会の喧騒を忘れさせるような星空が広がっています。


かつて、総曲輪通りの賑わいはこの場所で途切れていました。しかし、市内電車「環状線」の開通がその常識を塗り替えたのです。「大手モール」電停ができたことで、西町や中町からこのエリアまで、街をぐるりと回る「周遊」が可能になりました。
この回遊性の向上こそが、若い世代を中心に再び多くの人々を総曲輪へと呼び戻す原動力となりました。
ここでは冬季を除き、月に一度「越中大手市場」というイベントも開催され、かつての境界線は今や、新しい出会いと活気が生まれる「街の広場」へと進化を遂げたのです。

【まちづくりの歴史を歩く、開放的なプロムナード】 写真の「ユウタウン総曲輪」から線路沿いに、国際会議場方向へと続く開放的な歩道。それが「大手モール」です。
この場所で特筆すべきは、2002年から四半世紀近くにわたって続いている「越中大手市場」の存在です。まだ周囲の景色が今とは全く異なっていた頃から、このイベントは「まちづくり」の大切な柱として、人々の交流の場を守り続けてきました。
近代的なビルと、路面電車が走り抜ける景色。そして20年以上変わらずに続く人の温もり。
建物が新しくなっても、ここには「自分たちの街を自分たちで盛り上げよう」という、2002年から途切れることのない情熱が、今も大手モールの風の中に息づいています。
総曲輪の歴史—戻ってきた「市内電車環状線」
総曲輪の歴史を語るうえで、路面電車は外せないのですが、2009年に現在の「環状線」が開業する前は、大正初期に市内電車が開業した際にも、この部分を電車が走っていました。つまり、一旦廃線になったということです。

【歴史が重なり合う、大手モールからの絶景】 大手モールをさらに進むと、視界の先には富山の誇る「富山城(城址公園)」の勇姿が見えてきます。最新の路面電車が城門の前を走り抜けるこの景色は、新旧が融合する富山を象徴する光景です。
私の母校である「総曲輪小学校」は、もともとはこのお城の周辺にあり、時代とともに場所を変えながら歩んできました。一時期は「俛焉(べんえん)小学校」という名で呼ばれていたこともあります。
「俛焉」という言葉には、学問に励むという意味が込められています。かつての学び舎があったお城の風景を眺めていると、私たちが生きる今の街の土台には、江戸・明治から続く長い教育と文化の歴史が流れているのだと、改めて背筋が伸びる思いがします。
そして市内電車環状線にデ8000形が運用についていたので撮影した写真。非常に珍しいです。
2024年元日の能登半島地震で大ダメージを受けた城址公園はしばらくの間一般の立ち入りができませんでした。

【歴史を塗り替え、文化が交差する多目的空間】 大手モール沿いを歩く途中に現れる、モダンな建物。それが「富山市民プラザ」です。
ここにはかつて、市民の健やかな暮らしを支えた「富山市民病院」がありました。病院の移転に伴い、跡地を再開発して誕生したこの施設は、今では展示やコンサート、発表会などが行われる「街の情報発信基地」へと姿を変えています。
連日多くのイベントで賑わうその姿は、かつての病院とはまた違う形で、街に健やかな活力を与えてくれているようです。
また、広場の部分、この場所は「大手モール広場」といい、「越中大手市場」の際は運営本部や飲食スペースとなります。

【街を歩き、記録し、次世代へと繋ぐ】 さて、西町交差点の「TOYAMAキラリ」から始まった総曲輪散策も、ここ大手モールの「富山市民プラザ」まで辿り着きました。
ここ大手モールでは、冬期を除き毎月、富山の名物イベント「越中大手市場」が開催されています。2002年から続くこの催しは、歩道に多くの出店が並び、また、路面電車の通行を優先しながら歩行者が自由に通りを楽しむ「トランジットモール」の開催もあり、街に圧倒的な活気をもたらしてくれます。
私も記録カメラマンという形でこのイベントに参加し続けています。
➡「越中大手市場特集」も是非ご覧下さい!(写真が多いので、各開催日のページをご覧の際は通信量にご注意願います)
変化し続ける総曲輪の街並みと、そこで笑い、楽しむ人々の姿。もし会場でカメラを構えている私を見かけましたら、ぜひ気軽にお声がけください。写真のこと、街の歴史のこと、皆さんとお話しできるのを楽しみにしています。
総曲輪の歴史で知らない人も多い
総曲輪の歴史の中で、「江戸時代」は富山城の裏を流れる「松川」の部分は、実は「神通川」でした。のちに埋め立てされて、松川の部分だけが残ったのだそうです。

【歴史の城跡が、日常の風景に溶け込む幸せ】 大手モールをまっすぐ進んだ先、そこに広がるのが「富山城」と「富山城址公園」です。夜の静寂の中、星空を背に浮かび上がるお城の姿は、思わず息を呑むほどの美しさです。
ここは、私が幼い頃に時間を忘れて駆け回った、かけがえのない遊び場でもあります。当時は今よりもずっと多くの鳩が集まっていて、餌をあげたり追いかけたりした光景が、昨日のことのように思い出されます。
最寄りの電停は「国際会議場前」。 かつては城下町の中心として、そして今は市民が星を眺め、子供たちが笑い、路面電車が優しく走り抜ける場所として。富山城は今も昔も、変わることなく私たちの暮らしを静かに見守り続けています。

【振り返れば、そこにある「知」と「行政」の記憶】 大手モールを抜け、富山城址公園の敷地内へと足を踏み入れました。ふと振り返ると、夜の空に美しく映える「ANAクラウンプラザホテル富山(シティホテル)」と「富山国際会議場」が並んで見えます。
近代的な輝きを放つこの二つの建物ですが、かつてここには、富山の中心を担った「富山市役所」と「富山市立図書館」が建っていました。その後は、公会堂であったり、富山市の保健所となりました。
市役所へ手続きに行ったり、図書館で静かに本を広げたり……。かつて多くの市民が「用事」を持って集まった場所は、今では「交流」や「おもてなし」を届ける場所へと、その役割を鮮やかに変えたのです。
足元の城跡から、かつての市役所の記憶、そして今の国際会議場へ。一つの視界の中に、富山の歩んできた幾重もの時間が溶け合っています。

【皇室をお迎えする、富山の格式あるランドマーク】 城址公園の向かいに立つこのシティホテルは、皇室の方々が富山を訪れる際にも利用される、非常に格式高い場所です。
2009年(平成21年)には、当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下)がご宿泊されました。沿道の人々に優しく手を振ってくださったそのお姿は、この街の記憶に深く刻まれています。
館内には、神聖なチャペルや洗練されたバー、国際的な会議室、そして上質な飲食店が揃い、まさに富山の「迎賓館」としての役割を担っています。
庶民的な商店街の賑わいから、お城の歴史、そしてこのホテルのような気品ある空間まで。すべてが手の届く範囲に共存していることこそが、総曲輪という街の真の魅力なのかもしれません。

【富山の中心で、至近距離に感じた温かなお心】 ホテルの正面玄関に、ゆっくりと御車(おくるま)が寄せられます。ドアが開いた瞬間、そこにいらっしゃったのは、当時の天皇皇后両陛下でした。



両陛下がホテルから一歩外へ歩みを進められると、沿道を埋め尽くした大勢の市民からは、一斉に温かな拍手が送られました。
手を振ってお応えになる両陛下の穏やかな微笑みと、それを見守る市民の誇らしげな表情。
富山の中心市街地が、単なる「商いの場」を超えて、皇室と市民が心を交わす「特別なステージ」となった瞬間です。この場所に刻まれたそんな大切な記憶を、私たちはこれからも誇りを持って語り継いでいかなければなりません。
【あとがき:ファインダー越しに見つめ続ける「わが街・総曲輪」】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
昭和の面影が色濃く残っていた2002年、2003年の風景から、現在の近代的なビルが立ち並ぶ姿まで、私自身の思い出と共に総曲輪を辿ってきました。
実家があった総曲輪エリアの街並みが消えてしまった寂しさは、今も心のどこかにあります。しかし、新しくなったグランドプラザに子供たちの笑い声が響き、大手モールを路面電車が走り抜け、皇室の方々を温かくお迎えする今の街の姿もまた、私たちの新しい誇りです。
街は生き物です。形を変え、役割を変え、次の世代へと引き継がれていきます。私が清掃活動を続け、こうして記録を公開し続けるのは、この街が単なる「場所」ではなく、多くの人々の「人生の舞台」だからです。
昔の活気を知る方も、今の総曲輪に新しさを感じる方も。このページが、皆様にとって「この街をもっと好きになる」きっかけになれば、これ以上の喜びはありません。
また、どこかのイベント会場(写真撮影をしています)や、朝~昼の清掃中、あるいは「野乃」の朝風呂で見かけましたら(わかるかわかりませんが)、ぜひ気軽に声をかけてください。
2026年01月 撮影・文:IKOIKOSOGAWA 代表 安村
ここまで紹介した一部の写真画像、また、そのほかの富山の風景写真画像や全国の鉄道の写真画像を、メニュー内「アロープロダクツ(IKOIKOSOGAWA販売部門)」から購入しダウンロードいただけます。ぜひご利用ください。
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総曲輪の歴史の変化を振り返り、自分と比較すると
自分の中での総曲輪の歴史。西武百貨店が誕生した数年後に僕は生まれているのですが、小さい頃は富山西武にあったロッテリアでバーガーやポテトを注文し、外のテラス席(今のSOGAWA BASE広場の場所)で食べたのが懐かしいです。ポテトを落とすと鳩さんがやってきて食べていくのです。そういえば城址公園にも鳩さんがたくさんいましたね。西武地下1階の生ジュース売り場でメロンのを飲むのがまれにあり、それが楽しみでした。マンガは瀬川書店、CDはフクロヤで買い、ラジカセやカセットテープは中央通りの長崎屋で買っていました。
総曲輪での幼少期の生活
総曲輪の歴史を語るうえで、住民は多かったといえます。生まれた当時も住民、子供は多かったですね。小学校では書道を習っていました。同じ町内の子供と通い、帰りに中央通りのマクドナルドでバーガーを食べていたのが懐かしいです。また、郊外と違うのは遊ぶところです。そもそも両親ならびに家族が自営業の子ばかりなので、出かけることは少なく、その代わりに小学校の仲間と西武百貨店や富山大和、ユニー、市民プラザでいたずら三昧。何度怒られたか・・・。
総曲輪で遊んだ場所
ユニー。4階だったでしょうか、エスカレーターのあたりに小さい子供と親御さんがゆったりできる、やや柔らかい正方形や三角形、球体の直径50cmほどのたくさんのブロックで遊べる場所があったのですが、総曲輪小学校のみんなで暴れまくり。一か月ほどで撤去に追い込みました。ただ、地下1階の食品売り場でお菓子を山のように買っていたので許してください。特に、ビックリマンチョコです。
富山西武。販売機で買えるガンダムの「カードダス」というのが流行っており、20円で一枚のところをダイヤルをいじることで10円で一枚購入していました。いたずらではないですけど、広場でミニ四駆配りをしていたこともありましたし、エレベーターガールもいましたね。ただ、玩具や文房具、JUNやコムサの服をたくさん買ったので許してください。
富山大和。エスカレーター横でチラシ配ってる方にチラシをもらっては紙飛行機にして、エスカレーター上ってくる人に向かって投げる。そのタイミングで戻り、またチラシをもらっては・・・を繰り返し、配っている方に「もう取りに来ないでね」と言われたのを今でもはっきり覚えています。ただ、高校生の時に7階あたりのカメラ屋さんでミノルタのコンパクトカメラ「カピオス160」を70,000円くらいで買ったことがありますので許してください。
市民プラザ。3階だったでしょうか、レンタルスペースがあるほうではなく、小さい部屋があるところで、紙やチラシがたくさんあるので、白紙を取り出しては落書きしまくりで最後にばらまいてみんなで退散。しかし翌日、小学校のホームルームで「なんですかこれは!!!」と、担任がその紙をすべて持っていたのです。えっ!と思いつつも、参加した全員が公開処刑状態でした。因みに、小学校5年生のころ、体育館が新設工事で使えなかったので(今のレガートスクエアの体育館が新設後のです)、プールで授業したり、4Fのアンサンブルホールで体育祭をしたのが懐かしいので許してください・・・?
西町の平和通りから少し入ったある建物。小学校5年生くらいになると、友達の輪を作りたくなるのです。児童心理学ではこれを「ギャングエイジ」というのですが、まさにギャング気取り。勝手に隙間に基地を作って、たむろしていました。隣接する家の敷地に柿の木があり、実があったので取りに行ったら家主に怒鳴られたことも。
総曲輪にはこんな人もいた
そういえば、昔々はロングスカートの制服の女子高生不良集団、特にリーダーを「スケバン」と呼んでいましたね。徳風幼稚園の裏の駐車場のところで、一人の女子高生を集団リンチしているのに出くわしました。その子の髪を引っ張り壁に押し付け、ひとりずつ殴ったり蹴ったりするのです。ただ、当時はまだ小さく、何をしているのかわからなかった。そして連中が市中連れまわしに出ていく際に、「おねぇちゃんたちなにやってるの?」と聞いたのです。すると、「悪い人を退治してるんだよ!」と笑顔で言われたのを今でもはっきり覚えています。酔っ払いや893系人間もうろうろしていた時代ですから、何があってもおかしくはなかったですね。その連れまわされていた人は、顔がアザだらけで青くなっていました。
総曲輪は交通も便利で、いろんなお店があった
交通も便利でしたね。昔は市電が西町どまりのもありました。床が板になっている電車もあり、今では緑のマットが敷かれていますが、その電車は「デ7000形」といい、生産が始まったのが昭和32(1957)年ですが、現役の車両もまだあります。
中学校のあたりで、総曲輪通りや中央通りにゲームセンターが。しかし、長持ちしないもので、潰れていく店が多かったです。中学校になると、さすがに他校区の生徒も学校に来るので、総曲輪ではない場所で遊ぶのが当たり前になりました。僕がぐれて居た時期です。
高校生の頃・・・1995年ころは総曲輪の街は廃墟のような暗さがありました。景気が一段と悪化し、人通りは大幅に減少。部活(弓道部に所属していました)ばっかやっていたのであまり総曲輪通りに行くことはなかったです。1999年にはもう富山にいなかったのですが、郊外の巨大店舗「ファボーレ」の開業(2000年、平成12年)など郊外化が進み、マクドナルドや富山西武は閉店へ。
総曲輪の人通りは多いといえるのか?
しかし、人通りが減っていった中からの再起の末、総曲輪は「個性・憩い・娯楽」の楽しめる街となりました。若い人の通行量が多いんです。今の高校生に「昔に比べて総曲輪の人通りはどうだろう?」と聞いたら、増えているといわれるでしょう。僕からすると、まだまだ少ないです。もっと高齢の方だと、非常に少ないといわれますね。ただ、富山駅前には太刀打ちできない現状があります。若い方が楽しめる「お買い物」「娯楽・レジャー」「飲食店」はもっとあってもいいものだと思います。
総曲輪に来る外国人も増えた
2025年に行くべき場所に選ばれた富山市ですが、その効果もあって、2025年は多くの外国人を見かけることが多かったです。イベントでもですが、平日でもそうでした。特にTOYAMAキラリと富山城。地図やスマホ片手に歩く方が多かったです。評判がどうかは知りませんが、多くの方が楽しまれたと思います。
この記事を書いたのは、IKOIKOSOGAWA(イコイコソーガワ)代表の安村です。どんな人物かは、こちらのページをご覧ください。
では最後に、紹介してまいりました施設のホームページもご覧ください。
他、当ホームページでは様々なページメニューを掲載しておりますので、そちらもまたご覧ください。
これからも街に恩返しできるよう、総曲輪の街でのボランティア活動を続けていきたいと思います。
総曲輪を知るお供に、是非ご覧下さい。通信量が気にならないよう、写真画像を軽量化しています。
・写真で見る「富山市まちなかの夜の写真」※あわせて約7MBの写真数枚が載っています
・写真で見る「富山市電の写真」※あわせて約7MBの写真数枚が載っています
