総曲輪でボランティア活動を行いイベントなどの紹介を行っているIKOIKOSOGAWAのロゴ

安村フィロソフィー

IKOIKOSOGAWA代表・安村の哲学をここに記します。

※このページは長文のページですので、完読まで時間がかかりますので、ご了承ください。


まえがき

僕は小さい頃から物事を「感覚」「イメージ」で覚えるほうで、「論理」「言語」で表現するのが難しい人間であります。なので、文庫本や現代文の教科書を読んでも、文字の羅列にしか感じない。小学生の時から、国語や社会は大の苦手です。ゆえに、英語の長文読解も苦手です。

左利きなことやアスペルガーの要素、HSPの要素、そしてMBTI診断のINFJであることから、「感覚」が優先なんです。別のページ「IKOIKOSOGAWA代表の紹介」でも記していることなのですが、僕は2歳の頃に漢字が書け、3歳の頃には九九ができたといいます。4歳のときには九九をマスターしましたが、祖父が書いてくれた九九の表、そのものをまるごと映像として記憶している感じです。例えば、3×8、4×6、6×4、8×3 が同じ答えなのに、どうしてそうなるかという理屈を理解することはありませんでした。ただただ、物事を覚えるのが早く、RPGのゲームに浸るようになってからは、ドラマ性と言いますか、どうしてこういうストーリーになるのかも考えられず、キャラクターの言葉そのものを順番に細かく覚えている、と言った具合になりました。

ですので、今回文章を記すにあたり、誤字脱字、矛盾しているところや、表現力が足りない、などの部分があり、お読みいただいている方に理解されないかもしれない、というところがあると思っています。おかしな点が無いか、というのは、一度GoogleのAI、Geminiに助けてもらっています。

これは僕の考えや生き方の工夫についてを記すものですので、寛大な精神でお読みいただければ幸いです。体の悪い中、線維筋痛症や双極性障害、潰瘍性大腸炎などをはねのけて生きる、「克つ」ということを忘れない生き方をご覧いただきたいと思います。そうです、「克てなくなった」時が死に至るとき。皆さまも「克つ」「勝つ」ということを、どうか忘れないで、自信を持って生きていってほしい、それを伝えることが出来たら、ご理解いただけたら、嬉しいというものです。

第1章:物質も精神も、事象もすべて波で構成されている

この世のすべては「波」だと思っています。物理的な光や音だけでなく、私たちの喜怒哀楽、社会の景気、歴史の変遷までもが、一定のリズムで寄せては返す「波」として存在しているのではと感じます。先ほど申しました「光」と言った「電磁波」も波であれば、物理的な要素ではない「大自然」や「事象」「感覚」までもが波で構成されていると感じるのです。

たとえば、「昼」が来れば、「夜」が来る。「寒い」が来たら、「暑い」が来る。1日の変動なので、人間が感知しやすい事だと思いますが、もっと波が緩い事、たとえば「温暖化」があれば「寒冷化」があります。もちろん、「進化」があったなら、いつかは「退化」することもあるのでしょう。世の中の「波」には、様々な要素があって、その数えきれない「波」によって、世の中が構成されていると感じるものであります。

「事象」や「感覚」もそう。片方が出てきたから、その反対の片方が出てくる。たとえば、「災害」が発生したとします。人々はそのまま見過ごしますか?いいえ、「対策」を行うのです。それは「失敗」という経験から、「成功」へ導くための事象であり、「味方」であった自然が突如「敵」として襲ってくることでもあります。「災害」は辛いことだらけ。人々は「泣く」「悲しむ」といったことがあるでしょう。しかし、「成功」という再建のもと、自然が「味方」と感じるようになる時には「笑う」「喜ぶ」と言った日々がやってくるのでしょう。でも、それもまた「波」。様々な災害が起きては対策を施すけれども、また同じような災害が発生し、なんらかの被害、悲劇は必ず発生します。そこでまた人間は「失敗」から「成功」を学ぶ。1995年の「阪神淡路大震災」が無ければ、今もまだ「建設する建物の耐震化義務」は無かったかもしれません。でも、2024年元日の「能登半島地震」では、たくさんの家屋が潰れてしまった。私情を挟みますが、総曲輪の街でイベントを開催し、まちなかを盛り上げようと共に走ってきた主催者さんのご友人が、ふるさとの珠洲市に帰省後、自宅に潰されて亡くなったのです。毎回そのイベントにやってきていた方は、2024年1月のイベントから姿を現さなくなった。「昔建設された家」にはまだ「耐震性能」が無かった。こう言う風に、同じような災害があっても、人々は「悲しみ」に暮れ、そして対策の末、「笑える」日がやってくるのです。苦しくても、悲しくても、いつの日か「波」が楽しい、嬉しい、に引き戻してくれます。だから、何があっても、諦めたり、終わりだと感じたりしないでほしいと思います。

「波」には必ず「山」と「谷」、つまり振幅の両端というものがあり、その「両端」というものは「相対」で構成されています。この「相対」こそが世界のバランスを保っているのではないかと感じます。たとえば「昼」という光の山があるからこそ、私たちは「夜」という闇の谷を認識できるわけです。もし世界が光だけで満たされていたら、私たちは「光」という概念すら持てなかったのではないでしょうか。 

「波」には「発信源」があります。様々で且つ数えきれない波、この「波」が世に放たれ、世の中を構成するとわかった古(いにしえ)の人がそのことを、得体の知れない「神」と崇めた存在なのではないでしょうか。つまり、この波の最初、発信源は「ビッグバン」のことではないでしょうか。波の発信源には比較対象がない。それを「絶対」と呼ぶが、一度放たれた波が広がるこの世界には、絶対的要素があっても、それすら「波」という「相対的」なものと感じます。 私たちは、時速1,000km程度で自転する地球の猛烈な動きを感じないように、この巨大な波のシステムを「当たり前」として見過ごしているわけです。しかし、私たちが持っている感情の起伏、たとえば「笑う」と「泣く」、「愛」と「憎しみ」といった感覚は、この宇宙の波を測るための「初期装備」として、生まれつき持っているものなのではないでしょうか。

第2章:世の中に存在するものには無駄がない

「無駄」に見えるものも、実は大きな波の一部なのでしょう。例えば、近所の人が夕食に何を食べているか、どんな些細な愚痴をこぼしているか。それをすべて把握できる人などいません。一人の人間には知る由(よし)もないミクロな事象でも、それらが数千万、数億と集まれば「食料需要」や「世論」などの巨大なマクロの波、すなわち「うねり」へと姿を変えるのです。 「不景気だから出生数が減り、そして高齢化で福祉予算が膨らみ、そして現役世代の負担が増える」というような現象も、個々の小さな波が連鎖した結果なんです。 

無駄がないことに、「波」の存在が関わっています。例えば、「おいしい」を知らなければ、「不味い」がわかりません。仮に、自分の作った料理が不味かった・・・だから、今度は工夫を凝らして「おいしい」料理に変えることもできるのです。「不味い料理の存在」は無駄ではないのです。これをひとつの「事象」と捉えるならば、世の中の様々な事象にも無駄はない。これもまた、大宇宙の法則であると考えます。

「波」で構成されている?「事象などの存在」には無駄がない?と感じる方もいらっしゃるでしょう。ここで考えてみてください。なぜ、世界の「男女比はほぼ1:1である」のでしょうか。女性の方がわずかに長生きだとしても、出生や全体のバランスは驚くほど均衡を保っているのです。なぜか? それは、この世が「男」という波があれば、必ず対となる「女」という波を必要とする「大宇宙の法則」の下にあるからです。一見ランダムに見える命の誕生すら、波の性質によって制御されているのです。ゆえに、この世に「不要な波(無駄)」など一切存在しないのだと感じるのです。

また私情を挟みますが、僕の病気は現代医学では治りません。しかし、治療を続けることで、医学界の人々がそれを資料として集め、技術を高め、いつの日か同じ病気の人を完治させることができる、そうであるならば、僕の病気、また、それに対する辛さ、医療費ですら無駄ではないと考えます。僕が「苦しい」のは事実。でもそれは、いつの日か人々の「楽しい」に変わる時が来るでしょう。それもまた、無駄ではないのです。どんな状況でも、生きていることに無駄はありません。

第3章:波の一部は等価交換である

「得る」という事象の裏には、必ず「失う」という「対価」があります。エネルギーでも物品でもそうなのですが、これを「等価交換」と呼ぶのが正しいでしょう。たとえば、モノやサービスの提供に対してお金を払う。毎日のように行っているでしょうから、感覚としては皆さんがお持ちだと思います。しかし、世の中が「波」で出来ていることと、「無駄な存在が無い」ことを考えると、どんな物理的な事でも、どんな事象でも、そう言えると思います。例えば、 大金を稼ぐ金持ちと、貧乏な人の差。不平等な世の中と感じるでしょう。しかし、それを不平等と嘆く前に、その裏にある波の振幅を見るべきではないでしょうか。金持ちは、その資産を手にするために「莫大な労働時間」「心身を削る労力」「失敗すれば全てを失う高いリスク」というエネルギーを先に消費しているんですね。 もちろん、軽作業や、労働時間が短ければ、そして仕事に関して背負うリスクが少なければ、稼ぐ額というのは少ないです。

このルールは人間関係にも当てはまります。「支え合う」「愛し合う」という言葉に「合う」という文字が含まれるのは、一方が放ったエネルギーをもう一方が受け取り、そしてまた返すという「波の干渉」が起きているからです。 本当にそうならば「存在は無駄」ではないですし、「支えること」「愛すること」に対する消費と受領の等価交換でもあります。もし、一方が「得る」ばかりで「失う(与える)」ことをしなければ、波は循環を止め、その関係は脱線・破綻します。他の例えならば、「win-winの関係」でそう言う事が言えるでしょう。

もっと言うなれば、「カネでの繋がり」じゃなく、「心での繋がり」もあるでしょう。「カネでの繋がり」が「win-win」の関係だとしたら、片方が「lose」になった瞬間、関係は破綻します。しかしどうでしょう、「心での繋がり」というのは、「楽しい」「嬉しい」と言った「支え合い」だけではなく、「苦しい」「辛い」「悲しい」と言ったことに対しても「支え合い」ができるのです。目先の利益だけではなく、相手の気持ちを理解して、自分の気持ちも理解する。「苦しみあい」も「支え合い」であり、その「苦しみ」はやがて「楽しみ」に変わる時が来ます。そう、「楽しみ」に変えたければ、心で繋がり、支え合うことが重要なのです。結局それもまた「等価交換」なのです。

人類が長い歴史の中で集団を形成し、文明を築けたのは、この「得ることと失うこと」を共通のルールとして受け入れ、目的のために協力し合ってきたからに他ならないのです。

第4章:世の中の争いは世の中の平和のためにある

世の中、「恒久平和」を訴える人は多数います。いや、数えきれないくらいでしょう。「平和」であることが、「命」そのものを大切とし、ひいては「笑顔」「楽しい」に繋がるからです。しかし、「波」の原理からして、「争い」は平和を壊す悪魔ではなく、次の「平和」を生み出すためのエッセンスといった所です。「安村ってやつは酷いことを言うな」と思われるかもしれません。しかし、歴史を振り返ってみてください。「まえがき」で、僕は歴史の授業がまるでダメと言いましたが、わかることとして、人間は「争い」の歴史でもありますよね。 人間は「ダメなこと」を極限まで経験しなければ、何が「まとも」なのかを真に理解できないのです。

例えば、ある高学歴の推理小説の著者がSNSで他大学のサークル学生を蔑み、炎上して謝罪に追い込まれたということがトピックとして挙がったことがありましたよね。あれは「傲慢」という高すぎる波が、「炎上」という逆方向の波によって叩き落とされ、社会のバランス(良識)を取り戻そうとした結果であります。他に、繁華街であれば、 商店街の中で同業他社が激しくつぶし合い、競い合う(争う)ことで、より便利な百貨店やGMS、そしてショッピングモールが生まれてきました。一つの形が極まれば、必ず次の新しい形へと波が動くんです。 そのように、「恒久平和」は人間の美しい願望ではありますが、波が止まらない以上、それは幻想でもあるのです。

世の中の進歩は、「いじめ」もまた進歩させてしまいました。僕の世代は、高校のときに「ポケベル」や「PHS」を持っている子が少しいたくらいです。しかし現代は、子供でも簡単にスマホが与えられる時代。それを使った非常に悪質ないじめは、もはや僕の世代が親だとしても、わからない点が多いでしょう。知らない方はいろいろ聞くなり調べるなりしてください。どんなに陰湿で悪質かを。「悪質」はそろそろ「良質」に変える時が来ていると思います。時代は変わるかもしれませんが、それでも大宇宙の法則として「波」は存在します。「支え合い」の精神エネルギーが、「負」を「正」に変えるため、もう警鐘を鳴らしてもいいと思います。そして、いじめという行為を肯定するわけではありません。しかし、その負のエネルギーに抗い、乗り越えようとする力こそが、次の次元の「平和」や「進化」を呼ぶための、避けられない摩擦(波)の一部なのです。争いという摩擦を「No」と受け止め、それを乗り越えて「Yes」へと変えていく。その繰り返しの中にこそ、私たちの進化があり、そして私たちの生きる意味があるのではないでしょうか。

第5章:波の性質から未来は決まっている

夏になると、花火大会なんかが多いですよね。私情を挟みますが、僕はHSP気質からか、「ドン」という轟音が苦手です。閃光も苦手。だから「雷」は大の苦手です。僕にとって「耳栓」はエッセンスそのものです。そして、花火大会で浴衣を着て、花火を見ながらカップルが見惚れている理由が僕にはわかりません。花火大会の現場ではなく、離れているところから見てもいいのではないでしょうか。ちなみに、僕の祖母が総曲輪で仕事をしていたのをやめた理由は、建設されたシティホテルが壁となって、夏の神通川納涼花火大会が見えなくなったことが原因と聞きました。僕はその時、愛媛県に試合に行っていたのでそんなことがあったのは知らなかったのです。てっきり、疲れたとか、売り上げにならないからやめたのだと、ずっと思っていたのです。3.11ののちに健康状態から疲れ果てて東京から富山に戻ってきた30歳のとき、初めてそれを聞きました。こんな悔しいことはありませんでした。

さて、花火大会の現場で花火を見ている人をAさんとし、そこから1km離れた場所で見ている人をBさんとし、さらに1km離れたところ(花火大会の場所から2km先)で見ている人をCさんとしましょう。理科の授業で習う「波の直進性」を思い出してほしいです。 そして、音が「波」であることも思い出してほしいです。夜空に大輪の花火が開いた時、その真下のAさんには即座に「ドン」と音が届く。1km離れたBさんにはごくわずかあとに「ドン」が届き、さらに先にいるCさんにはもっと後に届く。ここで、「Bさん」に注目していただきたい。音を聞いた瞬間、Bさんにとっては、Aさんの聞こえた「ドン」は過去のもの(こと)であります。しかし、さらに1km先のCさんには、「これから音が届くはずだ」と100%の確信を持って未来を予測できますよね。なぜなら、音という波は直進し、止まらないからです。 これと同じことが、「波」で構成されている、私たちの人生や社会にも言えるはずです。過去から現在にかけて放たれた数えきれない「事象の波」や「感情の波」は、すでに一定の方向を持って未来へ向かって進んでいる。 未来のある地点では、その状況というのは決まった状態になっているということです。未来が見えないのは、受け付けた「波」が私たちの脳という受信機に届いているだけで、つまり過去は認知できるわけで、その先にある「波」の存在がわからないだけです。因果の法則に基づけば、未来は「既定の路線」としてすでに存在している。私たちは「未来を作る」と同時に、「すでに届くことが決まっている波」を待っている存在でもあるんです。

だけれども、「どうせ未来は決まっているんだ」とすぐに嘆かないでください。事象も感覚も波ならば、辛く苦しいことも、明るい方向へ舵を切る「チャンス」でもあるのです。「俺が未来を変えてやる!」と、立ち向かってみてください。自分をあきらめないでください。そして自信を持ってください。過去の時点で、その「変えてやる!」という未来は約束されていた。だから行動に移せる。そして未来の時点でも、その「行おう」としたことで変わっているんです。きっとそれが、あなたの「当たり前」となって、苦労は報われるでしょう。

第6章:期待を得る為に必要なのは裏切らない事である

僕は家電量販店での仕事の経験上、「ありがとう!」と言われるのが嬉しいですね。感謝されるのは、「期待」をそのまま遂行できたからに違いないと思います。

しかし、お客さまから「ふざけるな!」とか、「お前らどうしてくれるんだ!」みたいなクレームも多発するのです。それらは何らかの「裏切り」であったためのクレームです。だって、もともと期待していなければ、感謝も苦情も存在しないですから。ですので、私たちは「クレーム」があってこその「信頼」に繋げられると感じ、そこから「期待」へと体制を変えなくてはいけないとわかりました。「ありがとう!」の逆、「申し訳ありません」を誠実にお伝えして、です。

信頼とは、気の遠くなるような時間をかけてレンガを一つずつ積み上げるような「超高層ビルの建設」に似ています。しかし、その「超高層ビル」を一瞬で崩すのは、一か所に仕掛けられた小さな「爆破装置」一つで足りるわけです。積み上げた「信頼」は、一瞬の「裏切り」であっという間に全て無くなります。 

波には「周期」があります。「片方に行っては、もう反対の片方へやがて進む」ということです。付き合ってはすぐに別れてしまうカップルになる人は波の振幅(たとえば、「愛する」と「憎む」)が激しく短期的ですが、一生寄り添う夫婦というのは波が穏やかで長期的(緩やか)であるんですね。 そういう夫婦でも少しはケンカくらいあったかもしれませんが、それでもそのケンカを「無駄ではない」と捉え、そしてお互いを「信頼」できることで結婚生活を維持できているわけです。だからこそ、「裏切り」、例えばこの場合だと「浮気」などが当てはまるでしょう。それが関係性を崩壊させるわけです。

そして、たとえば、部活動で成績が悪くてレギュラーを外された生徒が、猛練習してレギュラーに復帰すれば「期待」は高まります。しかし、サボりや嘘といった「裏切り」で信頼を失えば、その人の波は周囲から拒絶されるようになる。世の中、不正をして信頼を失墜させたニュースも度々目にしたと思います。今この瞬間も、どこかで嘘をつき、人を騙して楽に生きようとしている者たちがいます。彼らは忘れてはならない。波は直進し、いつか必ず反射して自分に戻ってくる。ただの「楽」はいつの日かの果て無き「苦」に変わるんです。「あぶく銭」が怖いのはこのためです。自分が放った「裏切り」という火の粉は、未来の自分を焼き尽くすために直進し続けているのです。楽することがいつの日かの苦痛になるならば、今の苦痛を「楽」に変えることもできるのです。もちろん、過去から学んだことを含めての「楽」なので、それは「裏切り」ではなく「期待」として考えてほしいです。その「苦痛」は無駄ではありません。「楽しい」に変える、特効薬としての存在です。

僕にもそんな特効薬があって、全ての病気が治るなら欲しいところですね。でも、特効薬が無くてもいい。治療しても治らない、裏切られている形でもいいです。いつの日か、同じ病気で苦しむ人たちの「楽」になるための「苦痛」ならば、それが無駄ではないのであれば、病気に抗うことですら「期待」に変わるのですから。

第7章:行動は脳が決めている故、行動を否定することは脳を否定することになる

先ほどの第6章で、仕事場だった家電量販店の話を出しましたが、僕は仕事場でよくお客さまに言われたのです、特に修理受付部署でのことですが、「どうしてくれるんだ!」とか、「こんな腐ったもの売ってんじゃねぇよ!」などと。だからチームで問題を解決することも多く、部署内のメンバー同士は「戦友」と言った具合でした。そう、仕事場は常に戦場のようなものでした。クレームが無ければ、それこそ「平和な一日」でしたね。仕事としては、売り場でも、修理受付でも、せかせかしつつ、数字は必達しなくてはいけない、その上苦情を出してはいけないわけです。今思えば、7:55に仕事を開始し、気づけば23:30という日が多かったです。

世の中、怒りっぽい人もいるわけです。例えば、仕事場で一生懸命働いて、結果を出しているとか、処理が早くてかつ正確とか、それなら問題ないのですが、どうしてもだらだらと仕事している「怠慢な人」には、上司が「お前はなんて怠慢なんだ!」「ふざけたことをするな!」と他人の行動を叱責する時があるでしょう。その時、私たちは相手の「行動」という表面の波だけを見ているわけです。しかし、そういった行動(この場合は怠慢)というのは、その人の「脳」が下した切実な指令なのです。生きていると、誰かの行動に対し、「それは違うだろ!」と言いたくなる時がありますよね。しかし、行動を否定するということは、その行動を指示したその人の脳の存在を否定することであり、どんな人間でも脳が指示を出して生きているのですから、ひいては人間自体を、いや、生命の進化そのものを否定することに等しいと感じます。

例えば、盗みを働いた人間がいたとしましょう。それをすぐに「悪」と切り捨てるのは簡単です。しかし、「もしかしたら、この人は交通事故で家族を亡くし、自身も障がいを負い、親族に全財産を奪われた末の行動かもしれない」と想像してみたらどうでしょう。「原因」があるから「理由」があるわけで、その結果として「行動」があるわけです。片方の「結果」だけを見て、もう片方の「背景」を無視するのは、「波の半分」しか見ていないのと同じなんです。

ですので、行動をみても、「どうしてそうなるのか?」「なぜ?」ということを考えるようにし、そして「もしかしたら・・・」と仮定することも、相手の行動の改善につなげられる場合があるわけです。何かを伝えたい、変わってほしい、学んでほしい・・・そういった「・・・したい」というときは、すぐに「No」を突きつけず、「もしかしたら」を考え、そして相手に「どうして?」と語りかけるようにすることで、お互いの理解度が高まり、改善ができるのではと感じます。すぐに相手を否定せず、背景を想像することで、初めて「対話のレール」が繋がり、共により良い未来(行動)へと出発・加速できるのではないでしょうか。

第8章:他者によくわからないことは、いつの日か他者の便利に変わる

「ゲームばっかやってないで!」と怒られる子供も多い事でしょう。それは親が「勉強していない」と認知したからです。「なぜゲームをしたがるのか?」ということも考えず、一方的な主張でもって、無理やり理解させようとするのは、結局は何をするにしても相手のモチベーションが低下するというものです。

「ゲーム」は、当たり前ですが遊ぶために作られたものです。ゆえに、遊ぶ人がいる。もちろん、子供たちだけではありません。しかし、「そんなくだらない遊びをして何の得があるの?」と感じる人もいるでしょう。ゲームそのものを否定するような考えを持つ人は少なくないはずです。でも、その考え自体は正解でも不正解でもありません。個々の脳が出した指示、つまり考えたことですから。

昔、「ファミリーコンピュータ」通称「ファミコン」が発売された時は、世の中は熱狂的になったものです。僕の幼少期の頃ですね。のちに発売される「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」シリーズにはハマったものですし、「カツアゲ」や「発売日のズル休み」といった社会現象もありましたね。この文章を記載している時は「プレイステーション5」や「ニンテンドースイッチ2」などの「ハード」が存在しています。当然、ハードがあればそれで遊べる「ソフト」も、多数存在するのです。

誰もが簡単に遊べるゲーム。しかし、その裏では「ハード」「ソフト」共に、果て無き開発の苦労というものがあります。開発のためのPDCAサイクルとでも言えばよいでしょうか、キーボードをひたすら叩き、画面に延々と向き合ってプログラムを打ち込んでは、それを動作させてみて、おかしな点があれば改善のため、またキーボードを叩く。うまくいかないことも多々あったでしょうし、構想そのものを大きく転換させるようなことまで、発売に至るまで数えきれない汗と涙、何度も訪れる苦痛や苦悩、うまくいかなかったときの悲痛などは多かったことでしょう。

しかし、そうやって開発から発売に至る間、見えないところで誰かが流した「汗と涙」、そして「失敗の山」があったからこそ、ゲームは支持されるようになったわけです。簡単にゲームが楽しめる「当たり前」に変わった訳ですね。それだけではありません。1995年のインターネット黎明期(れいめいき)に、重たいパソコンの前で格闘していた先駆者たちを、多くの人は「よくわからないことをしている」と冷ややかに見ていたはずです。しかし、その時すでに、今日(こんにち)私たちが「AI」を自在に操る未来は、直進する波として決められていたのです。決してそれは、無駄ではない存在です。

あなたが今、誰にも理解されず、孤独に努力していることも、他人から見れば「よくわからないこと」かもしれないです。しかし、その孤独な波はやがて大きなうねりとなり、いつの日か誰かの生活を劇的に便利へと変える「よくわかること」へと等価交換されます。 「よくわからない」と否定されることを恐れてはいけない。かつての偉人達も、他者がわからない事を研究したり開発したりし、そして今現在の「当たり前」を構成したのです。その周りからは理解不能な情熱こそが、未来の扉を開く唯一の鍵なのです。どうか自分を信じて、やがて他者の「当たり前」になるように、波を放ち続けてほしいと思います。

第9章:当たり前を当たり前で、知らないを知らないで終わらせるのはもったいない

言い方は悪いと思いますが、「便利」は麻薬に似ています。一度浸ってしまうと、それに依存し、やめられなくなりますよね。「依存症」ということです。「依存」には多くの対象があります。「依存症」は社会的な課題でもありますが、僕はあえて「自家用車依存症」と声をあげたいですね。

60年代、「モータリゼーション」から、個人でも自家用車を持つということが簡単になりました。僕の住んでいる富山など、地方では「クルマなしでは生きられない」という言葉をよく聞きますね。ということは、自宅から行きたい先が遠くにある、と言えばいいでしょう。こうして自家用車はあちらこちらで見られますが、その分「ドーナツ化現象」というのも起きました。郊外が住宅地をはじめ都市開発され、ロードサイド店は増え、「中心市街地」は蔑ろにされ、廃れていったのです。そう、僕が「自家用車依存症」と声高々に言いたいのは、この「中心市街地の衰退」に対して闘っている自分の心からの声なんです。

育ったまちなかがどんどん衰退していく姿と、祖母がどんどん老いぼれていく姿とを照らし合わせ、このままではいけない、と考えるようになりました。もちろん、市街地の発展を後押ししたい、というだけではありません。「自家用車」が危険な存在であることも、周りに警鐘を鳴らしていかないといけません。

「郊外化」がおきた。郊外に家がたくさん建てば、そこまでの水道管や道路を敷設するのに莫大な費用を自治体が払う。水道管などのインフラは限界レベルまで劣化が進んでいて、どう対処していくのかもわかりません。「危険な運転」が増えた。ルールを無視したり、遊び感覚で運転したり。「あおり運転」なども増えましたね。世の中一体全体の便利さに対し、自家用車の便利さというのはデジタルのように早く処理できるものでは無いからイライラする人も多いんですね。そして「手放せない」という事。高齢化が進んでも車に依存していかないとならない事実。危険な運転が蔓延(はびこ)るようになり、何かあれば逆ギレされる始末。飲酒運転だって、いつの日も誰かがやっていること。無くなることなんてない。そしてもっと危険なのは、「じゃあ車に乗るのはやめよう」となった時に、もう公共交通はすでに廃れているという事実です。重いものをもって歩いて移動するのは身体にはいいこと(運動になる)ですが、それは東京などの大都市部の人なら問題ないでしょう。問題は地方の人間がクルマに依存し、運動もしなくなり、そしてそれ以外の不便、つまりクルマが無いとお買い物、通院、通学などが大変な若年層や高齢者、障がい者などに降りかかったということにあります。

クルマもバスも電車も、存在を否定することはできません。そしてこういう未来がやってくることも、60年代には決まっていたものなんです。だからこそ考えていかないといけない。「自家用車ユーザーの皆さんは、こういう依存に対して税金をガバガバと取られても文句はないのですよね?」という問いを、僕は自分自身にも、この社会にも突きつけたいのです。なぜなら、私たちが本当に守るべきなのは、車という鉄の塊ではなく、それがないと移動すらできない弱者や、共に笑い合える『まちなか』の暮らしそのもののはずだからです。

そういった「クルマが無いと生活できない」が「当たり前」になっていますが、もともと「当たり前」は「当たり前」ではなかった。第8章で述べた、誰もがよくわからない、しかし完成の末、多くの人が支持し、「当たり前」になった、ということが世の中にはあるわけです。しかし、クルマを運転できなくなれば、その瞬間から「不便な生活」が始まるんです。

「当たり前」。そんなの当然と思うようなことの、その裏側にある苦労を忘れれば、「有難い」という感謝の心を失い、やがて「不便」という名の精神的な沼に沈んでいくわけです。世の中、例えば「蛇口をひねればキレイな水が出る」。「スイッチを押せばすぐ明かりがつく」。このような「当たり前」を実現するために、どれほどの人が失敗し、どれほどの命が費やされたか。その背景(理由)を知ることで、私たちは初めて「有難い(有り難い=有ることが難しい奇跡)」という感謝の心を持てるようになるわけです。 「当たり前を当たり前で、知らないを知らないで終わらせる」人は、想像力を失い、自分さえ良ければいいという傲慢な生き方に陥ります。今の日本に蔓延(まんえん)するいじめや、見えない場所での涙、そして社会的においていかれる人たちがいるのは、この「当たり前を当り前で終わらせる」とか「知ろうとしない怠慢」が生んだ負の波なんです。何でもいいです、歴史でも、誰かの痛みでも、知ることはそれだけで自分を、そして世界を救う力になります。そして「どうしてこうなったんだろう?」と深堀りすることで、「今後こうあるべきだ」という考えを持てるようになり、そして「当たり前」があるから「私たちは本当は有難いんだ」という感謝の心を持てるようになるんです。皆さんも、ふだんから「ありがとう」ということを忘れないようにしてください。僕も心に刻みます。それだけでも、みんなが明るい生活を保つことができます。

第10章:今を生きる子供たちへ、辛くて苦しいなら大人を恨め

これを見ているのが親御さんで、こういう人がいるかもしれないので記します。大人が子供に強いる「いい大学、いい仕事、高収入」というレールを突き進む、ということ。それは、決まった時間に決まった場所へ着く「列車」の生き方です。 しかし、人生は列車である必要はありません。そのレールを進む列車が脱線したり、事故を起こしたりしたらどうするのでしょう?予定通りにはならなくなり、人生を修正しないといけないです。そうなる可能性は否定できない。だから、子どもが「お母さん、僕は自転車で行くよ」と言ってもいいのです。自転車は列車よりずっと遅いですし、坂道はきつい。漕げば漕ぐほど足は痛くなる。けれど、自分の脚で漕ぐからこそ見える景色があり、寄り道して見つけた場所に感動し、体が鍛えられ、人生の深み(得)を味わうことができますよね。

 今、「僕はこうしたい」「私はこういう状況にあるから変わりたい」というような事が言えない環境で、いじめを受けていたり、成績が伸び悩んだり、また、孤独で死にたいほど苦しんでいる、そんな子供たちへ言いたいことがあります。その苦しみの原因は、波の調整(苦しいから楽しいへ、悲しいからうれしいへ)役であるはずの大人が、君たちの痛み・苦しみに「気づいていない」ことにある。つまり、列車でしか行かせないからだ。本当は自転車に乗って、自由気ままに動き回りたいんだよね?

だから、僕は言う。苦しいなら、辛いなら、そして悲しいなら、大人を恨みなさい。それでしか、大人に気付いてもらうことはできないから。君たち子どもが「ウソ」をついたらなぜ怒られると思う?それは、親が責任を取らなくてはいけないから。逆を言えば、大人は嘘ついてもいいんだよ。自分で何とかできちゃうからね。大人ってのは、本当に都合の良い生き方しかしない人が多いんだ。だから、本当のことを知ってもらうなら、ウソをつくのではなく、恨むしかないんだ。そして、「僕はダメな子だ」「私はバカにされてるんだ」という子供たちもいるだろう。でも、どんな人間でも「無駄な存在」は無いんだ。生きるのが辛いとき、大人を恨めば、それに対して助けてくれる大人が出てくるから、その人に助けてもらうようにしよう。

ただし、その恨みの波がいつか反転し、君を救う「ありがたい波」となって戻ってきたなら、その時は勇気を持って「ありがとう」と言おう。 恨むということを知った君は、同時に「人を助ける」ということもわかるようになり、誰よりも優しくなれるんだ。痛みを知った君は、大人になった時に最高の「当たり前」を贈れるようになれる。だから、絶対に諦めないで。君という波を、無駄ではない存在を、自分自身で信じ抜いてほしい。世の中は波で構成されている。どんなことも、だ。今、夜ならば必ず陽は昇り、希望という光に照らされる朝がやってくる。雨は嫌かもしれないが、無駄な存在ではない。それは誰かの希望でもある。特に農家がそうかな。だから雨も決して悪いわけでは無い。そしていつか晴れる時がくる。日光を浴びれば脳内に「セロトニン」が出てくる。「幸せホルモン」と言われている。心地よくなり(心が楽になり)、程よい眠気も出てくるから、日光も浴びよう。「セロトニン」は夜に「メラトニン」に変わり、ぐっすりと眠れるようにもなる。その日光を浴びれる外の世界というのは広い。いろんな人がいる。いろんな文化がある。そして、いろんな出来事が起こっている。その中にも、あなたと同じように苦しんでいる子どもは必ずいる。すでに恨まれている大人もいるだろう。外の世界は広い。いろいろ自分から好きなように学んで、自分のことを大切にし、そして「生きていこう」となれるよう、心から祈る次第です。

あとがき

僕はボランティアこそやっていますが、それを除くと「孤独な日々」です。そして、頭の中でずっと何か(考えや思い出したこと、音楽など)が駆け回っています。薬のせいで、ぼーっとすることもあります。しかし、孤独であろうが、考え抜いたことだろうが、無駄な存在というのはありません。この文章を記そうと思ったのは、僕が「どうして祖母に恩返しをするのか?」という、総曲輪界隈のボランティアの始まりにあります。まえがきで申しましたが、僕はASD(自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症)の「アスペルガー」だったと思われます。この特徴には、物事に非常に執着する、というのがあるのですが、いわゆる「空気を読めない」ということも存在します。つまり、当時はASDの認知度は非常に低かったから、「しつけがなってない」と思われたのです。

僕は実は、虐待を受けていました。殴られたり、尻を叩かれたり、時にネグレクト。だから僕は、仕事場にいる祖母の近くにずっといたものです。だから、お遣いに行ったり、銀行に両替に行くことも多かった。その際に、お駄賃をくれるのです。これでお菓子を買ってきなさい、と。でも、僕はそれが「当たり前」だと思って育ってきた。だから、どんな時も、祖母に「感謝する」ということをしなかった。中学時代にぐれて居た時も、高校時代に弓道をやるからと道具の費用を出してもらった時も、迷惑をかけ、そして感謝もすることなく、祖母は仕事をやめると言ったのでした。第5章で申しましたが、その高校生だったころに、祖母が仕事をやめる本当の理由を知らなかったのです。祖母は僕が東京の大学に行った最初の冬に亡くなりました。一回の感謝もすることなく。総曲輪の街や仕事や、家族を、僕を守ってくれた祖母に感謝もできなかった人間が、フィロソフィーなんて言っているけど、これは祖母が僕に残してくれた、「無駄のない存在」そのものです。

祖母の慈愛は、いまの僕の活動力に等価交換されたのです。四つの治らない病気と闘っていること(クリッペル・トレノネー・ウェーバー症候群という先天性の難病にも罹患しています)も、また僕に与えられた天命であり、病気になったからこそ気付いた存在というのもたくさんあります。「感謝」です。病気のことを見舞ってくれる人たちがいます。本当にありがたいです、心配していただくなんて。障害年金と、仕事とは言いにくいデジタルコンテンツの販売、これらで生活は何とかなってはいますが、もっと健康でいられたならば、まだ東京で元気でバリバリ働いていたでしょう。でも、まともに働けない身体になって、そして心配していただいて気付いたのです。僕には「感謝」という気持ちが足りない事、「献身」ということ、そして「こういう未来がやってきてよかったんだ」ということ。稼げない人間なのでしょう、でも、カネがあればそれでいいと言う事には繋がらなかった。なぜなら、カネを積んでも僕の病気はどれも治せないからです。それでよかった。気付いたことがいっぱい出てきました。今やっていることが最後の天命だと。

街への恩返しが全て終わった時、僕は祖母のところに行って、きっと「ありがとう」と言えるのでしょう。ここでよく考えてほしいのです。世の中が波で構成されているならば、「生」の後には必ず「死」がやってきます。これは生あるものは避けられないですよね。でも、波であるならば、「死」にたどり着いた精神エネルギーはやがて「生」として世の中に存在するのでしょう。その時により良い生き方ができるよう、今勉強させてもらっているところだと僕は勝手に思っています。

そして、「死」がやってくるとわかっているのに生きる意味というのは存在します。「残す」と言う事です。本来ならば、子孫でしょう。しかし、人間であれば、資産とか、思い出とか、はたまた功績などもそうでしょう。それは次の世代を生き抜く人々のための活力となり、それが繰り返される、そんな事象が数えきれない波となって世界を構成しています。僕も、残せるもの残していきたい。未来に託したい。だから、最後に未来を生きる子どもたちのためにメッセージを残しました。僕は虐待され育ちましたが、本当は広い世界を知るために生きていく必要があることをどうか忘れないでほしいです。最後に、僕の大事にしている言葉をもって、全文章を終わらせていただきます。お読みいただきありがとうございました。

「希望を捨てるな、自分を信じろ、そして諦めるな」

IKOIKOSOGAWA代表・安村のフィロソフィー画像
おいしいものが食べたい。おいしくて楽しいけど、その分体には悪いという苦しみも等価交換になる。

参考ページとして、「IKOIKOSOGAWA代表の紹介」ページがあります。ぜひご覧ください。

→ASD(自閉症スペクトラム障害)については、こちらのページ(すまいるナビゲーター)で詳しく解説されています。


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